報告

来月4月より、文学座附属演劇研究所の演出部に入ります。

 

ないものねだりを辞めた2014年夏。ありそうなもの探しを辞めた2016年秋。第二の転換期を迎えまして。

大学卒業後、海外に行ってみたり、山奥の田舎に住んで働いたり、東京に戻って演劇やりつつOLしていたり、そんな生活を送っていました。何だかもう、蟻地獄にいるみたいな3年間で、もがけばもがく程、何かに飲まれそうでした。これからはもっとシンプルに頑張ろうと思い、シンプルに頑張れそうな場所を受験しました。

 

私の演劇のスタートは、青年団界隈というか、カステーヤさんでして、リトルモア地下をはじめ、アゴラ、春風舎、STスポット、キラリふじみで観た芝居の数々でした。だから、そんな20歳手前頃の私からすると、あらま!って選択なのかもしれません。

何というか、好きになったものと同じにおいのするものを作れるかというと、そうとは限らないと思っていて。演出始めた当初はそのことに気付かず、ごちゃごちゃと悩んだのですが、ある時から、大事なもの12つ残して、段々と全てを手放してみたら、自分の演劇に実感が持てるようになって。だから、逆に言えば、ずっと、自分の掌にはあの頃観た芝居の欠片を握りしめているわけで。握りしめたまま、演劇という超大海原を必死に進むことにしたのです。抽象的ですが、まあ大体そんな感じです。

まあ、多分、大学の人とかからしたら、全然違和感のない選択なんだと思うんですが。

 

結構、今回の選択を周囲が予想以上に喜んでくれるので、なんというか、少しびっくりしていて。あー、演劇やっていいんだな、みたいな気持ちがじわじわ来ている。まあ、許されなくたって、もうやるんですけどね。続けます。

昔は、何の実感もなく、ただただ単純にファンとして漠然と声を上げていたけど、今は逆に半端者なので少し気恥ずかしくて、でも最大限の実感を伴っている言葉で、今も変わらず尊敬し続けている演出家の言葉をお借りして締めくくらせて頂けば、演劇LOVEなわけです。

 

そんなこんなで、今後とも、よろしくお願いいたします。

サンライズに乗って

もう1ヶ月前のことになるが、丸一年ぶりの旅行に出かけた。昨年は、前職で苦楽を共にした同期と加賀旅行だった。今年は、サンライズ出雲に乗りたいのと、あらゆる縁を呼び込みたいのとで、高校の友達と出雲に訪れてみた。何だか随分と頭も心もすっきりとしているのは、大きなパワーに包まれてきたからなのだろうか。

寝台特急で猛烈なわくわくに見舞われ、稲佐の浜に大感動し、圧巻の出雲大社を堪能した。 前の職業病がまだ抜けないのか、旅館の接客はいちいち未だに気になってしまう。困った。

まあそれはそれとして、旅行というのは人生にとって必要なことだと、観光業を離れ、都会に住むことで、改めて気付いた。だからといって、もう観光業にも接客業にも田舎暮らしにも戻りたくはないが、こういうハレの日がかけがえのない時間だということはとても思うところがある。 f:id:hkl12:20170222224203j:plain f:id:hkl12:20170222224256j:plain f:id:hkl12:20170222224947j:plain

追悼

今年はとても大事な人が2人旅立った。

 

一人は、蜷川幸雄氏だ。もちろん、一度も面識はない。

初めて蜷川作品を観に訪れたさいたま芸術劇場で、普通に廊下を歩く蜷川幸雄とすれ違い、さい芸ではこんなに簡単に生蜷川幸雄を見れるのか!と感動した記憶がある。しかし、それから何度か訪れているが、一度もすれ違うことはなかった。ちなみにその時観た作品は『ヘンリー四世』だった。

最も尊敬している演出家だ。元々、青年団界隈から演劇を観始め、自分もそういう作品を創るのだとあれこれやってみても全くうまくいかなかった。自分が創りたいもの、創れるものって何なんだろうと悶々としていた。それがはっきりしたのが、シェイクスピアプロジェクトでヘンリー四世を演出するに当たって蜷川さんのヘンリー四世を観劇した時だ。ダイナミックで、疾走感で溢れ、美しく、知的な作品だった。開始1分で打ちのめされた。それからいつの間にか、私の中で絶対的な演出家になっていた。勿論、信者になりすぎてもいけないと思うが、信じるものがあった方が糧になると思っている。稽古を見てみたかったし、もっと作品を観たかったが、かえってこういう存在のままな方がいいんじゃないかって今は思う。私は、頑張りますよ。

 

そして、もう一人は、最愛の祖父だ。

普通、赤ちゃんが初めて喋るとしたら「ママ」「パパ」らへんだが、私は「じーじ」だったそうだ。いつも祖父の膝の上にいた。面長で、長身で、優しい目をしたかっこいい祖父だ。インスタントコーヒーが好きで、小さい頃私はいつもクリープをコーヒーに入れる係だった。タバコもずっと吸っていて、海外旅行の帰りに免税店で祖父にタバコを買って帰った時、自分も大人になったなと思った。

ここ数年認知症気味で、入退院もあったから、何となくそういう時期が近付いているのかと思っていたが、どうしてちゃんと現実のものとして考えていなかったのだろう。祖父が亡くなってもいまだに実感が湧かないのは、ここ数年頻繁に足を運んでいなかったからなのではないかと後悔している。

持って、あと1~2週間と宣告された時、それからほとんど毎日、祖父の好きな甘いものを買って病院に足を運んだ。とらやの水ようかんが1番よかったみたいで、頬張る写真が母から送られてきた。亡くなったのは、山の日の明け方だった。ちょうど前日は、母と祖母以外、皆が今日1日くらいは大丈夫かなと顔を出さなかった日だった。前々日、最後に祖父のお見舞いに行ったとき、皆が帰るのを淋しそうに手を伸ばす祖父が忘れられない。なんであの時、眠るまで一緒にいてあげなかったんだろう。なんであの時、今日くらいは大丈夫かと会社の送別会に行ってしまったんだろう、たくさんのなんでが溢れかえった。なんで、別れというのは、後悔が付き物なのだろう。

亡くなる直前は、子供、孫が全員駆け付けた。その時はもうぜぇぜぇと苦しそうで、こちらに反応することはなかったが、息を引き取る瞬間は全員で見送った。

その後、霊安室の隣の控室のようなところで、残った羊羹を食べた。あんまり味がしなかった。

もっと、目も当てられないくらい落ち込むと思っていたが、普通に稽古に行き、普通に会社にも行った。それがどういうことなのか正直わからない。まだわかってないのか、わかりすぎていたのか。わからないから、とにかく死に物狂いでご冥福を祈った。ありがとう。

 

今年の最後に備忘録として。まあ、忘れることはないだろうが。

人の死、というのは、どうしてもまだ恐怖の塊みたいなところがある。きっとこれから、たくさんの別れが待っている。そういう年齢になってきている。後悔しないように、大事な人にはマメに会いに行くようにしている。

親知らず

親知らずは、4隅コンプリートだったので、前回は右上下、今回は左上下ということで、今回が2回目となったわけだが、症状が微妙に異なる。今回は、まあ腫れたし、まあ青あざがひどい。そもそも両方とも下の歯が横に生えていたため今抜くことを決意したわけだが、今回抜いた左側の方は、根が神経に近く、頭の方も隣の歯に大分食い込み気味だったらしい。細かく見るためにCTまで取らされた程だ。おかげで、料金はほぼ倍、時間に至っては倍以上かかったが、何とか無事治療してもらえた。抜いた当日にもう腫れはじめ、次の日にはこのまま佐藤二郎になるんじゃないかと思うくらい変形していた。今は、相変わらず職場の人に見せると「うわぁ」って言われるくらいの青あざがまだ残っているが、腫れは引き、痛みもだいぶ小さくなった。何より、物が噛める。まあでも、何はともあれ、これでもう二度と親知らずで悩むことはないわけだ。その病院の歯科口腔外科で一番偉い感じの人に担当してもらったのはラッキーだった。あとは、このまま何事もなく完治すればと祈るばかり。

そういえば、肌が白いとあざが目立ちますのでね。と何回も肌が白いことを強調されてしまったので、いい加減中学のテニス部事態に刷り込まれた「自分は比較的黒い」という認識を捨てなければいけないとここにきて思った。まあ、こんなに屋内にいて黒いわけはないわな。とにかく、親知らずの気配に悩んでいる全人類に言いたい。とりあえず歯医者行け。

今年のことなど

最近、後輩のSNSなどを見ていて、病んでるな~!と思うが、自分が大学生の頃や栃木にいた頃も大概だったなと思うと、若いというのはそんなもんなのだとしみじみ。それくらいは、いい加減大人になろうとしていると実感する25歳。

この時期は、歳をとるのと年を越すのが一緒くたになっていろいろ振り返ることが多くなる。今年は行動あるのみだと息を巻いて出発したが、その結果、自分にあるものとないものがよくわかり、とても視界が開けたし、初めて近しい人との別れに直面したこともあり、様々な面で考え方と呼吸の仕方が少し変わった気がした。

大人になって、もういい加減、今から突然、スポーツ選手にも、宇宙飛行士にも、漫画家にもなれないことを悟ると、自分が手に掴んでいるわずかなものを改めて広げて見てみるわけで、そうすると自ずと選択肢は、やるか、やらないか、になってくるのだと思った。

この辺の内容も、来年見たらこっぱずかしくなるのだろうか。

ちょうど今年の頭くらいから気になりだしていた親知らずも無事さよならして、気持ちもすっきりしているので、まあ良しとしよう。

12+12=24

24歳最後の日に記事でも書いてみる。

このままだと進撃の巨人読んで1日が終わりそうなので。

 

25歳という年齢は何だかとてもハッとする。5の倍数は一区切りあるような気持ちになる。だからこそ、24歳は変に焦らなくて済んだ。

随分とこの1年で、演劇に対する考え方も視野も変わった。取り組み方法も変わったし、観劇の仕方もかなり変えた。きっと来年も変わっているのだろう。今年、培ったこともちゃんと踏み台になっていけばいい。

 

人間としての様々な出来事もあった。十代の頃に、自分には程遠かった出来事が、大人になって次々と押し寄せてきていた。そういうのに押し潰されないように、でも、後悔しないように、ちゃんと目を見開いていようと思うわけです。

 

25歳のことは25歳になったら書けばいいや。

ありがとう、24歳。